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【ホンダ】本田宗一郎が引退を決断した伝説のエピソード

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豆腐屋の二代目である父親が廃業し苦労した経験から、事業を継続することの難しさを実感。苦しさを打ち明けられない社長の心の内に関心を抱くようになる。 会計事務所・東証プライム上場(旧東証一部上場)のM&A専門会社を経て、勇退を志す経営者を応援するサイト「社長勇退ドットコム」管理人を務める。一方で、メルマガ、ブログ、YouTubeなど幅広く情報発信。熱血M&Aアドバイザーが主人公の漫画「ロマンとソロバン」は、集英社の第15回「グランドジャンプ漫画賞」の佳作を受賞している。 ☞ 詳しくはこちらから

日本人は、散り際の美しさを大切にする民族と言われています。桜があれだけもてはやされるのも、儚いものを美とする日本人の心情にマッチしているからです。そんな日本人が好きな経営者の中に、本田技研工業の創業者、本田宗一郎さんがいます。その実績もさることながら、引き際の素晴らしさに憧れる経営者も少なくありません。

さて今回は、早過ぎる引退で業界を騒然させた本田技研工業の創業者 本田宗一郎さんを探っていいきたいと思います。

この記事は、こんな人におすすめです!
  • 本田宗一郎さんの生きざまに関心がある人
  • 近いうちに引退を控えている人
  • みんなから愛される生き方に憧れる人

🚗 本田技研工業を創業した愛すべきおやじ 本田宗一郎

人間の達人 本田宗一郎

ホンダを創業したのが、「天才技術者」と呼ばれた本田宗一郎さんです。

宗一郎さんは、仕事にはすこぶる厳しい人でした。怒鳴ることはしょっちゅうで、口より先に手が出ることもありました。でも、叱ったあとは、決まって怒りすぎたと反省し、この写真のように頭を掻いていたそうです。

宗一郎さんは、失敗についてこのように言っています。

「木登りが得意なサルが、心の緩みで木から落ちてはならない。それは慢心や油断から生じることだからだ。しかし、サルが新しい木登り技術を得るために、ある『試み』をして落ちたのなら、これは尊い経験として奨励に値する」

宗一郎さんは、常にお客さま目線で考え、私心で怒ることはありませんでした。失敗についても、わざと失敗したのではなく、自分にも原因があると考えていました。若さに対して、理解があったのです。従業員は、そんな宗一郎さんの後ろ姿に魅せられ、懸命にその背中を追いかけました。愛情にあふれ、理解のある上司のもとで、働くことができる従業員は幸せですね。

ちなみに、宗一郎伝説は今でも色褪せておらず、今年5月に行われた若手エンジニアを対象の意識調査でも、憧れのエンジニアとして堂々の1位に輝いています(インテージ調べ)。

🚗本田宗一郎の大きな夢

俺の考え (新潮文庫)

宗一郎さんは、生粋の「機械マニア」でした。鍛冶屋のかたわらで自転車屋をしていた父親の影響を受け、小学校6年生の時には、蒸気機関を作っていたほどです。「いつか自分で自動車を作りたい」というのが、宗一郎さんの夢でした。

16歳になると、自動車修理工場のアート商会に自ら手紙を送り、採用をもぎ取りました。アート商会は、宗一郎さんが夢を実現するための第一歩でした。5年の丁稚奉公を経て、21歳の若さでのれん分け。師匠である榊原郁三さんの弟子の中でただ一人、のれん分けを許されたのが、宗一郎さんでした。独立後も業績はすこぶる順調で、青年実業家、発明家として、「浜松に本田あり」とその名を轟かせていました。

宗一郎さんは、自動車修理だけでは飽き足らず、ついにピストンリングの製造に乗り出します。周囲からは、「無謀な挑戦」と猛反対を受けたたため、別会社の東海精機重工業を設立します。日夜研究にいそしみましたが、簡単には成果は現れません。実用化のめどが付いたのが3年後、安定した製品を送り出せるようになったのはそれから2年後のことでした。アート商会が稼ぎ出した資金は、ほとんど使い果たしていました。

小学館版 学習まんが人物館 本田宗一郎 (小学館版学習まんが人物館)

ピストンリングが、ようやく軌道に乗り始めた矢先、思わぬ事態が宗一郎さんを襲います。そう、太平洋戦争です。浜松は空襲と艦砲射撃にさらされ、街は壊滅状態。苦心して開発したピストンリングの需要は皆無に…。やがて、終戦により平和が訪れたものの、経済は完全に崩壊してしまいました。そして、宗一郎さんは、東海精機重工業の持ち株を、45万円でトヨタ自動車に譲渡し、一年間の休養に入ります。戦後の混乱期、何をすれば良いか、冷静に見極めるための大切な期間でした。本田宗一郎、38歳の頃の話です。

戦争が終わったとき、「軍が威張りくさる時代が終わってよかったな」と漏らしていたそうです。宗一郎さんは、権力と統制が大嫌いでした。この気質は、後に通産官僚との対立を引き起こすことになります。

🚗「世界のホンダ」に押し上げた3つのエピソード

本田宗一郎 夢を力に: 私の履歴書 (日経ビジネス人文庫)

ある日、仕事もせずにプラプラとしていた宗一郎さんの元に、知り合いからある相談が持ち込まれました。それは、「軍が使用していた小型エンジンをなんとかしてほしい」というものでした。考えに考え抜いたあげく、宗一郎さんはひらめきます。

「エンジンと自転車を組み合わせたら…」

自転車を組み合わせた全く新しいモーターバイク、通称「バタバタ」です。交通機関が混乱していた戦後の時代にマッチし、バタバタは大好評。飛ぶように売れました。宗一郎さんは、トヨタ自動車に株式売却した45万円の資金で、本田技術研究所を設立し、オリジナルのエンジンを開発に着手したのです。

世界のホンダの快進撃は、ここから始まります。1949年に、本格的な二輪車「ドリーム号」を開発し、1958年には「スーパーカブ」で世界を席巻しました。

宗一郎さんのエピソードはたくさんありますが、とっておきなものを3つだけ、厳選してお伝えさせていただきます。

❶ TTレースで完全優勝を果たしたホンダ

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1954年、宗一郎さんは、イギリスのマン島で行われるオートバイのオリンピック、TT(ツーリスト・トロフィ)レースへの挑戦を宣言します。俗に言う「マン島出場宣言」です。5年にも及ぶ研究を経て、1959年に125CCのレースに初参加。初陣こそ6着に終わったものの、1961年、初出場以来わずか3年で優勝を果たしました。名実ともに世界のトップメーカーに踊り出たのです。しかも、125cc、250ccの両部門で、1位から5位までを独占する快挙を、ホンダは成し遂げたのです。これは、世界初のことであり、宗一郎さんの子供の頃からの夢が叶った瞬間でした。

❷ 特定産業振興法案に激怒した本田宗一郎

二輪車の成功をおさめたホンダは、四輪車の製造にも着手します。社運を賭けたプロジェクトを指揮したのは、もちろん宗一郎さんでした。ちょうどこの頃、1961年5月、 通産省(今の経産省)は、特定産業振興法案(通称:特振法)を発表しました。この法案が成立すると、トヨタなど既存メーカー以外は自動車を生産することができなくなるという法律です。宗一郎さんは、激怒しました。政府や通産省にこの法案の撤回を迫ると同時に、短い期間で本当に自動車を作ってしまうという快挙を成し遂げたのです。

❸ 日本初のF-1参戦で優勝をもたらたホンダ

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ホンダがちょうど自動車生産を始めたばかりの頃です。マン島での全クラス制覇の興奮冷めやらぬ1962年、またまた大きな挑戦をします。宗一郎さんは、F‐1レースに参加すると声高に宣言しました。当時、ヨーロッパの自動車メーカーがぶっちぎりで早く、日本の自動車メーカーはどこも参戦していませんでした。それなのに、3年後の1965年、ホンダは初優勝を飾ったのです。

宗一郎さんが夢を語り続けたからこそ、「世界のホンダ」となったのです。

🚗 本田宗一郎を支え続けた盟友 藤沢武夫

本田宗一郎と藤沢武夫 (人物文庫)

ホンダを語る上でもう一人、欠かせない人物がいます。それは、藤沢武夫さんです。

宗一郎さんと藤沢さんが運命の出会いをしたのは、1949年8月、焼け跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋でした。初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田、カネの工面は藤沢」と役割分担を決めました。この時、藤沢さんは、その場で製材所を叩き売り、資金を作ることを決意したそうです。

後に、藤沢さんは二人の出会いをこのように語っています。

「私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移していくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走って行くだろう、そう思ったのです。」

そんな藤沢さんが一番恐れていたのが、宗一郎さん亡き後の「企業の存続」でした。そこで、本田技術研究所というスペシャリストにとっての働き甲斐のある場所を作りました。藤沢さんは、宗一郎さんがご存命の時から、組織の力を活用することに着手していたのです。

1970年、アメリカでは、環境汚染に配慮して「マスキー法」と呼ばれる厳しい法律ができました。今までの車の排気ガスの濃度を、90%も減らさなければならない厳しい法律です。当時どの自動車会社も、これに合った低公害エンジンを作るのは不可能だと反対しました。

このピンチをチャンスと捉えたのが、宗一郎さんです。エンジンに送り込むガソリンの量を少なくすることにより、当時不可能だと言われていたマスキー法を完全にクリアするエンジンの製造に、ホンダは成功したのです。

この研究所から、”マスキー法”を最初にクリアした低公害エンジンが開発されたのは、とても興味深い話です。

🚗 本田宗一郎に”引退”を決断させた従業員の言葉

本田宗一郎と知られざるその弟子たち (講談社プラスアルファ新書)

ホンダが開発した低公害エンジン(CVCC)は、すぐに大きな反響を呼びました。ホンダが素晴らしかったのは、この技術を自社だけのものにしなかったことです。公害対策技術を公開する方針を打ち出し、トヨタをはじめ、フォード、クライスラー、いすゞに対して、積極的に技術を提供していきました。宗一郎さんの先見的な考えが、名実ともにホンダを「世界のホンダ」へと押し上げたのです。

全てが順調に回っていた矢先、宗一郎さんの一言が従業員から思わぬ反発を招くことになります。それは、

「ビッグ3と並ぶ絶好のチャンスだ」

という一言です。環境にやさしいエンジンを開発した自負と、社員を鼓舞するために出てきた言葉です。悪気などちっともありません。そんな宗一郎さんの元に、若い従業員の中で、このような声があがっていることを知らされます。

「自分達は、会社のためではなく、社会のためにやっているのだ」

宗一郎さんは、ハッとします。

「いつの間にか私の発想は、企業本位になってしまっていた」

”社会のために技術がある”が信条の宗一郎さんは、自分の言動を猛省し、それから二度と、このような発言をしなかったと言います。と同時に、自分の意志を継ぐ若い人材が育ってきていることに、大いなる喜びを感じたそうです。

低公害エンジン開発の翌年の昭和48年、藤沢さんは宗一郎さんに副社長辞任の意を伝えます。それを受けて、宗一郎さんは、社長退任を決断しました。

「二人いっしょだよ、おれもだよ」

本田宗一郎65歳、藤沢武夫61歳でした。まだまだ現役で通用する年齢です。二人とも、子どもを会社に入れずに、大学卒第一号で入社した生え抜き河島喜好(45歳)を後継者に据えました。

創業25周年を前にしての二人の引退劇は、「最高の引き際」「爽やかなバトンタッチ」と評されました。

🚗 若さの特権

口癖のように、「最近の若い者は…」と言う人がいます。この言動について、宗一郎さんは次のように言っています。

「自分が若い頃にもそのように言われた」

と。そして、このように続けます。

「だけど、そのだらしないといわれた若い人たちが、自動車をつくり、飛行機を飛ばし、月までいける時代を築いてきたのではないか。
いつの時代でも、年をとったオトナたちよりも若い人たちのほうが偉いんだと思う」

ちなみに、古代ローマ時代の文献にも、「最近の若い者は…」という記録が残っているそうです。もし、古代ローマの時代から、若者の質が年々落ちているとしたら、それから2000年以上経った我々は、相当落ちぶれていることになります。そんなことは、ないはずです。

宗一郎さんは、年寄りが若者を批判するのは、「柔軟性を失って時代の流れについていけないからではないか」と推測しています。

「新しい価値の創造に挑戦する者は、
いつの時代も、年寄りの批判の最前線にいるのだと思う」

宗一郎さんも、そんな若者の一人だったに違いありません。若者に大きな期待を寄せていたからこそ、一回り以上も歳が離れている河島喜好さんに、社長の座を譲ったのだと思います。引退後、宗一郎さんが経営に対して口出しすることは、全くなかったと言います。

🚗 本田宗一郎引退後の全国行脚

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65歳で引退した宗一郎さんは、数千ヶ所ある販売店や工場で働く従業員一人ひとりにお礼が言いたいと、全国行脚の旅に出ます。時には、一日に400kmを移動することもあったそうです。

あるとき、宗一郎さんが従業員と握手を交わそうとしたところ、油まみれの手に気づいた従業員が、手を引っ込めてしまったことがありました。そのとき宗一郎さんは、

「いや、いいんだよ、その油まみれの手がいいんだ。」

と言って、しっかりとその従業員の手を握り、自分の手に付いた油のにおいをクンクンと嗅いだそうです。こんな姿を見せられたら、涙が出ちゃいますね。

🚗 本田宗一郎のお礼の会

1991年8月5日、宗一郎さんは84歳でその生涯を終えました。宗一郎さんの葬儀は、近親者のみで行い、位牌もなければ、僧の読経もありませんでした。そこには、「自動車会社の社長が渋滞を起こしちゃいけねぇよ」という、宗一郎さんの強い”おもい”があったようです。

「素晴らしい人生を送ることができたのも、お客様、お取引先のみなさん、社会のみなさん、従業員のみなさんのおかげである。俺が死んだら、世界中の新聞に、“ありがとうございました”という感謝の気持ちを掲載してほしい」

創業者の死去に際して、社葬ではなく「お礼の会」が開催されるということは異例でした。一般の方も来場されるとあって、大きな戸惑いもあったようです。しかしながら、蓋を開けてみると、来場者数は延べ6万2,000人。それぞれの想いを込めて、在りし日の宗一郎さんを偲びました。多くの来場者に囲まれて、宗一郎さんは天国へと旅立ったのです。

💬 筆者のひとりごと

お別れの会で宗一郎さんの最期の言葉として紹介されたのが、「皆さまのおかげで幸せな人生でした。どうもありがとう。」という言葉でした。最後の最後まで、人に対する深い愛情があった宗一郎さんだからこそ、多くの人から愛されていたのだと思います。過去の栄光にしがみつき、老害となってしまう経営者が多い中、この宗一郎さん引き際の美学は、時を経てもまったく衰えることはありません。

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