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3月30日に最終回を迎えたNHK連続テレビ小説「まんぷく」、あなたはご覧になっていましたでしょうか?
「まんぷく」は、インスタントラーメンを生み出した夫婦の物語です。ヒロインの福子を安藤サクラ、福子の夫で実業家・萬平を長谷川博己が演じています。モデルとなったのは、言わずと知れた日清食品の創業者 安藤百福・仁子夫妻です。無類のラーメン好きの筆者としては、ぜひとも知っておかなければならない人物であります。
さて今回は、カップヌードルを発明したラーメン王 安藤百福について、探っていきたいと思います。
百福さんがチキンラーメンを完成したのは48歳の時で、今や世界的企業となった日清食品を創業したのも、ちょうどこの頃です。事業家としては「遅咲きのスタート」と言えるかもしれません。
実は20代から繊維製品の製造販売で起業した百福さん。その後も、幻灯機の製造、炭焼き事業、バラック住宅の製造、製塩や学校の設立など、さまざまな事業を手がけてきました。その中で、大きな3つの困難に見舞われることになります。
戦時中に軍事用エンジンの会社を経営していた百福さん。資材横流しの冤罪でとらえられ、憲兵に45日間にも及ぶ拷問を受けます。友人の口添えもあって無事に釈放されましたが、死と直面するほどに衰弱し釈放後は入院しなければならないほど衰弱しきっていました。
製塩事業がらみでは、夢見る若者に対して“奨学金”と称して渡していたこづかいをめぐって、脱税疑惑をかけられ、巣鴨プリズンに2年間も収監されてしまいます。奨学金が所得とみなされ、源泉徴収して納めるべき税金を納めていないという理不尽な理屈です。
巣鴨プリズンから釈放後、百福さんは、在日中国人向けの信用組合「大阪華銀」の理事長を、ひょんなことから引き受けることになりました。大阪華銀は、貸出超過に陥っており、さらに投資の失敗により、手形の決済も遅れ気味になっていました。融資残高が増える一方の三和銀行(現 三菱UFJ銀行)が大阪華銀への手形割引を停止すると、取り付け騒ぎになり、大阪華銀は倒産してしまいます。理事長としての責任を問われた百福さんは、無一文となってしまいます。
ところが、百福さんはこれらの困難にくじけることはありませんでした。
「失ったのは財産だけ。その分経験が血や肉となって身についた」
百福さんを支えたのは、「人の役に立つことはないか」「誰もやっていない新しいことをやりたい」という、飽くなきチャレンジ精神だけでした。
戦後の食糧難を嫌というほど肌で感じた百福さん。「衣食住の中で、食こそが人間の営みで何よりの基本」と考えていました。「いつか食に関する事業に取り組みたい!」という強い決意があったからこそ、チキンラーメンの開発につながっていったのです。
大阪華銀が破綻した直後の1957年。百福さんは、家族の手を借りて即席ラーメンの試作開発に没頭するようになります。自宅の裏庭に作ったわずか10平米の狭い実験小屋からのスタートです。
百福さんは、即席ラーメンの開発にあたり、5つの目標を立てます。
これらの目標は、1年後に完成されるチキンラーメンで、具現化されることになります。加工・半加工食品が備えるべき特質を簡潔に言い表わした、見事な開発目標を最初の段階でしっかりと立てていたのです。50年以上も前の目標ですが、現在においても通用する、素晴らしい目標設定だと思います。この先見力は、ホントに凄いことですよね ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
戦後の食糧事情を見た百福さん。”手軽に麺を食べられる商品開発”を検討する過程で、夫人が挙げている天ぷらの製法をラーメンに応用します。これが、瞬間油熱乾燥法という特許に発展したのです。問題意識をもって行動すると、見えないものが見えてくるんですね。
チキンラーメンを開発した当時、日本は敗戦の惨禍から復興への道を歩み、栄養豊富で手軽に食べられる食品のニーズが高まっていた時期でした。チキンラーメンは、鶏のスープを麺にしみ込ませ、ビタミン分を補強できるということで、旧厚生省から特殊栄養食品の認可も出されてました。政府公認の優良商品として、普及が進められていたのです。さらに、お湯をかけるだけで食べられる魔法のラーメンという印象と相まって、消費者から広く支持されることとなったのです。
このチキンラーメンの開発により、日清食品は数年にして全国に即席ラーメンを供給する企業へと成長します。これに他社も追随し、インスタント・ラーメンという新たな市場を開拓したのです。
晩年、百福さんは「自分自身で確かめること」の重要さを強調しています。これが第二の成功である「カップヌードル」の発明へとつながっていきます。
百福さんがカップヌードルを開発するきっかけとなったのは、試食販売の現場でした。チキンラーメンをアメリカに売り込む際、バイヤーさんが紙コップにお湯をかけるさまを目撃し、ピンときたそうです。紙コップが調理器と食器の役目を果たしていたことに着目したのです。
今でこそ世界中で愛されているカップヌードルですが、開発当初は「立って食べるような食習慣は日本人になじまない」とか、「価格が高い」という理由で、問屋から否定的な意見しかありませんでした。
これを突破するために、流行の発信地となっていた銀座の歩行者天国での試食販売を実施したり、野外作業を行なう機関に積極的に売り込んだりしました。百福さんは、調査機関のデータを決して鵜呑みにせず、自ら試食販売の場に出向いて、消費者の心理や動向を生でつかむ努力を怠りませんでした。
カップヌードルが爆発的に売れたきっかけは、1972年2月に連合赤軍が引き起こしたあさま山荘事件でした。この事件はテレビで長時間生中継が行なわれ、国民の注視を浴びましたが、浅間山荘を包囲する警官隊が寒中、カップヌードルをすするさまが放映され、大きな話題となったのです。
こうして、カップヌードルはテレビ時代の勃興とともに大きくクローズアップされ、日本のみならず世界へとはばたくきっかけとなったのです。
百福さんが発明したチキンラーメンは、すぐに人気商品となりました。しかしながら、チキンラーメンを模倣した粗悪な製品は後を絶ちませんでした。1961年、日清食品は、チキンラーメンの特許を取得します。これにより警告を受けることになった会社は113社にものぼります。
当初、模倣品に対して裁判などで争っていた日清食品ですが、1964年その方針を180度切り替えます。日本ラーメン工業協会を設立し、これまで一社独占状態だった製造方法を他社にも公開するしたのです。「瞬間油熱乾燥法」の製法特許を公開したのです。
「製法を独占して自分たちだけが栄えるより、他社にも技術提供して事業発展した方が良い」
つまり、それまで粗悪な製品しか作れなかった競合他社でも、日清食品と同レベルの品質のインスタントラーメンを作れるようにすることで、粗悪品が作られることを根本から防止したのです。せっかくの自社の強みを、みすみす競合他社に与えてしまうという、ありえない決断です。この決断ができたのも、即席ラーメンの開発時に掲げた「5つの目標」があったからだと思います。
現在のインスタント・ラーメン市場を作り上げたのは、まぎれもなく安藤百福さんの決断があったからでしょう。日清食品が製法特許を公開したのは、チキンラーメンの発売からわずか6年後のことでした。
広い視野と直観力、決断力をもって市場を切り開いた百福さん。そのチャレンジ精神は、チキンラーメンで大成した後も止まりません。「創業者に定年はない」という言葉どおり、95歳で取締役を退任した後も「創業者会長」として毎朝出勤し続けていたそうです。
2007年に急性心筋梗塞のため96歳で亡くなった百福さんですが、その前日には立ったまま30分の訓示を行っていたそうです。晩年のインタビューで長寿の秘訣を聞かれた百福さんは、このように答えています。
「週2回のゴルフと、毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」
「生涯現役」を実践していた百福さん。この行動が、後々、会社を引き継いだ二代目社長 安藤宏基さんを苦しめることになるのですが、それはまた別のお話。
次回は、チキンラーメンの味の決定に一役買った息子、安藤宏基さんをご紹介したいと思います。頑固なおやじと二代目との壮絶な”親子げんか”は必見です!!
続けて、こちらのコンテンツもご覧くださいませ(๑˃̵ᴗ˂̵)و テヘペロ
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