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【勇退】世界のホンダ 本田宗一郎が引退を決断した理由とは

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磯村 崇

昭和51年 愛知県常滑市生まれ
大学卒業後、会計事務所・M&A専門会社(現在、東証1部上場)を経て、平成20年株式会社コスモスコンサルティングに入社。

「答えは、社長の心の中にある」がモットーで、社長の話に真摯に耳を傾け、企業の発展と存続のため、社長と後継者の真の気持ちに重きを置いた事業承継対策・勇退のサポートに取り組んでいる。

日本人は、散り際の美しさを大切にする種族です。桜があれだけもてはやされるのも、儚いものを美とする日本人の心情にマッチしているからです。そんな日本人が好きな経営者の中に、本田宗一郎さんがいます。その実績もさることながら、引き際の素晴らしさに憧れる経営者も少なくありません。

さて今回は、早過ぎる引退で業界を騒然させた本田技研工業の創業者 本田宗一郎さんを探っていいきたいと思います。

この記事は、こんな人におすすめです!
  • 本田宗一郎さんの生きざまに関心がある人
  • 近いうちに引退を控えている人
  • みんなから愛される生き方に憧れる人

愛すべきオヤジ 創業者 本田宗一郎

人間の達人 本田宗一郎

ホンダを一代で築きあげたのが、天才技術者と呼ばれた本田宗一郎さんです。

宗一郎さんは、仕事にはすこぶる厳しい人でした。怒鳴ることはしょっちゅうで、口より先に手が出ることもありました。でも、叱ったあとは、決まって怒りすぎたと反省し、この写真のように頭を掻いていたそうです。

宗一郎さんは、失敗についてこのように言っています。

「木登りが得意なサルが、心の緩みで木から落ちてはならない。それは慢心や油断から生じることだからだ。しかし、サルが新しい木登り技術を得るために、ある『試み』をして落ちたのなら、これは尊い経験として奨励に値する」

宗一郎さんは、常にお客さま目線で考え、私心で怒ることはありませんでした。失敗についても、わざと失敗したのではなく、自分にも原因があると考えていました。若さに対して、理解があったのです。そんな宗一郎の後ろ姿に魅せられて、従業員は懸命にその背中を追いかけました。こんなに愛情にあふれ、理解のある上司のもとで、働くことができれば幸せですね。

ちなみに、宗一郎伝説は今でも色褪せておらず、今年5月に行われた若手エンジニアを対象の意識調査でも、憧れのエンジニアとして堂々の1位に輝いています(インテージ調べ)。

「世界のホンダ」と言わしめた3つの出来事

本田宗一郎「世界のホンダ」の仕事術 (PHP文庫)

ホンダは、今までに3回、世界をあっと驚かせています。

1回目: オートバイのレース

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昭和29年、宗一郎は、イギリスのマン島で毎年行われるオートバイのオリンピックと呼ばれるレースに挑戦することを宣言しました。5年にも及ぶ研究を経て、125CCのレースに初参加。初陣こそ6着に終わったものの、翌昭和36年に全クラスで完全優勝を果たしました。

これは、世界初のことであり、宗一郎の子供の頃からの夢が叶った瞬間でした。

2回目: F-1への参加

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ホンダがちょうど自動車生産を始めたばかりの頃です。マン島での全クラス制覇の興奮冷めやまぬ翌年、またまた大きな挑戦をするのです。F‐1に参加すると声高に宣言したのです。当時、ヨーロッパの自動車がぶっちぎりで早く、日本の自動車メーカーはどこも参加していません。それなのに、3年後の昭和40年には初優勝を飾ってしまったのです。

3回目: 低公害エンジンの開発

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昭和45年、アメリカでは、環境汚染に配慮して”マスキー法”と呼ばれる厳しい法律ができました。今までの車の排気ガスの濃度を、90%も減らさなければならない厳しい法律です。当時のどの自動車会社も、これに合った低公害エンジンを作るのは不可能だと反対しました。

このピンチをチャンスと捉えたのが、本田宗一郎さんです。エンジンに送り込むガソリンの量を少なくすることによって、当時不可能だと言われていたマスキー法を完全にクリアする、エンジンの製造に成功したのです。

宗一郎を支え続けた盟友 藤沢武夫

本田宗一郎と藤沢武夫 (人物文庫)

ホンダを語る上でもう一人、欠かせない人物がいます。それは、藤沢武夫さんです。

宗一郎さんと藤沢さんが運命の出会いをしたのは、昭和24年8月、焼け跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋でした。

初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田、カネの工面は藤沢」と役割分担を決めたそうです。藤沢さんは、その場で製材所を叩き売り、資金を作ることを決意しました。

後に、藤沢さんは二人の出会いをこのように語っています。

「私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移していくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走って行くだろう、そう思ったのです。」

引退を決断させた従業員の言葉

本田宗一郎と知られざるその弟子たち (講談社プラスアルファ新書)

ホンダが開発した低公害エンジンは、すぐに大きな反響を呼びました。公害対策技術は公開するという方針を打ち出し、トヨタをはじめ、フォード、クライスラー、いすゞへの技術供与していきました。

全てが順調に回っていた矢先、宗一郎さんの一言が従業員から思わぬ反発を招くことになります。それは、

「ビッグ3と並ぶ絶好のチャンスだ」

という一言です。環境にやさしいエンジンを開発した自負と、社員を鼓舞するために出てきた言葉です。悪気などちっともありません。そんな宗一郎さんの元に、若い従業員の中で、このような声があがっていることを知らされます。

「自分達は、会社のためではなく、社会のためにやっているのだ」

宗一郎さんは、ハッと気付かされます。

「いつの間にか私の発想は、企業本位に立ったものになってしまっていた」

”社会のために技術がある”が信条の宗一郎さんは、自分の言動を猛省し、それから二度と、このような発言をしなかったと言います。と同時に、自分の意志を継ぐ若い人材が育ってきていることに、大いなる喜びを感じたそうです。

低公害エンジン開発の翌年の昭和48年、藤沢さんが副社長辞任の意を伝えます。それを受けて、宗一郎さんは、社長退任を決断しました。

「二人いっしょだよ、おれもだよ」

本田宗一郎65歳、藤沢武夫61歳でした。まだまだ現役で通用する年齢です。二人とも、子どもを会社に入れずに、大学卒第一号で入社した生え抜き河島喜好(45歳)を後継者に据えました。

創業25周年を前にしての両社の引退劇は、「最高の引き際」「爽やかなバトンタッチ」と評されました。

引退後の全国行脚

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65歳で引退した本田さんは、数千ヶ所ある販売店や工場で働く従業員一人ひとりにお礼が言いたいと、全国を行脚の旅に出ます。時には、一日に400kmを移動することもあったそうです。

ある従業員と握手を交わそうとしたところ、自分の油まみれの手に気づき、引っ込めてしまったことがありました。その時本田さんは、

「いや、いいんだよ、その油まみれの手がいいんだ。」

と言って、しっかりとその従業員の手を握り、自分の手に付いた油のにおいをクンクンと嗅いだそうです。こんな姿を見せられたら、涙が出ちゃいますね。

自分が死んだら

生前、宗一郎さんは、こんなことを言っていたそうです。

「素晴らしい人生を送ることができたのも、お客様、お取引先のみなさん、社会のみなさん、従業員のみなさんのおかげである。俺が死んだら、世界中の新聞に、“ありがとうございました”という感謝の気持ちを掲載してほしい」

このような言葉が出てくる宗一郎さんは、本当に幸せな人生だったと思います。おかげさまという気持ちがあるからこそ、大きな事を成し遂げられたのだと思います。この境地にたどり着くのは難しいと思いますが、この生きざまに憧れる人は多いのではないでしょうか。

筆者のひとりごと

結局、宗一郎さんの葬儀は、近親者のみで行い、位牌もなければ、僧の読経もありませんでした。「自動車会社の社長が渋滞を起こしちゃいけねぇよ」こんな”おもい”があったようです。この見事な死にざまに、見習いたいものです。

次は、「ジャパネット高田社長に見る勇退の美学」をご覧下さいませ(๑˃̵ᴗ˂̵)و テヘペロ

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